毎年9月21日は、「世界アルツハイマーデー」です。
さらに、9月は「世界アルツハイマー月間」と定められていて、9月21日を中心に、認知症の啓蒙活動が各地で実施されています。
なぜ9月21日が「世界アルツハイマーデー」なのかといえば、1994年9月21日、スコットランドのエジンバラで開催された、第10回国際アルツハイマー病協会国際会議の初日であるこの日を「世界アルツハイマーデー」と宣言したことからだそうです。
父と、認知症患者さんと、私。
かつて、父が入所していた有料老人ホームにも、認知症の入所者さんがおられました。
特に父が困っていたのは、夜間に徘徊し、他の入所者さんの部屋の扉をバンバン叩く女性の存在。
位置関係なのかわかりませんが、 「バンバン攻撃」 に遭う部屋は、だいたい決まっていたようです。
父の部屋は角部屋だったせいか、叩かれる確率が非常に高かった。
認知症を病気と思っていない父は、その女性へのいたわりの気持ちなど、まるでありません。
迷惑行為を繰り返す人としか、思ってません。
バンバンされるたび、「何を夜中にバンバン叩いとるんじゃ、ボケ!」と、部屋の中から大声で怒鳴る。
その父の声を聞きつけて、スタッフが走ってきて、女性を自室まで連れ帰る。
そして私は後日、「あんなやつは、病院に放り込んだらええんじゃ!」などという、父の罵詈雑言、愚痴のシャワーを浴びる。
もう十数年前の出来事ですが、認知症の話題に接すると、あの女性のことを思い出します。
女性本人、彼女の身内、老人ホームのスタッフ、それぞれがどう思い、日々過ごしていたんだろうと。
愚痴を言い続ける父へ、どう伝えるのがよかったんだろう。
父の愚痴のはけ口になっていた老人ホームのスタッフは、どう寄り添ってくれていたんだろう。
その女性の存在が、父には大きなストレスとなり、結果としてガンを患ってしまったのではないか。
悩みは尽きなかったです。
もし認知症を患ったら、私はどう生きる?
時は流れ、私が悩んでいた当時に比べると、認知症に関する情報量は飛躍的に増え、自治体レベルでの認知症の啓蒙活動も盛んになりました。普通に「ボケ老人」とか言っていた時代が、嘘のようです。
しかし、認知症への理解を深めようとする人が増えたのはよいけれど、現実はそんな甘いもんじゃないよ、という気持ちは、常にありました。
過去に私が接した経験のある認知症の方は、症状が悪化しつつある人、迷惑行為を繰り返す人ばかりで、「認知症=辛い、悲しい、怖い」という、後ろ向きな印象しか持てなかったからです。
認知症になったら、もう人生は終わりだと思っていました。
「希望の道」というサイトに、認知症患者の方へのインタビュー動画が掲載されています。
ちょっと衝撃だったのが、「認知症っていう病気がどんなものなのか、今でもわからない」という、福田さんの言葉。
望月さんの「なるようにしかならない」、森さんの「今の医学では治せないんだから、1日1日楽しく過ごした方がいい」という言葉も、全部ここに通じる。
患者さん自身も、どんな病気なのか、どうなっていくのか、よくわからないんだ。
わからないことは不安だけど、くよくよ考えていても何も解決しない。それならば、今自分ができることに取り組む方がいいよなあ。
平さんも「今の自分にできることは何だろうと考えている」とおっしゃってるし。
認知症の進行や症状は、本当に個人差が大きいということです。
さらに、現時点では、進行を緩やかにすることはできても、完治させることはできません。
患ってしまったら、一生、認知症と付き合っていくしかないのです。
そこで人生を終わらせるわけにはいかないのです。
インタビュー動画は、そんなことに気付かせてくれました。
辛い、悲しい、怖いと言いつつ、自分の不幸を恨みつつ、下を向いたまま生きるか。
現実を受け入れ、今できることを探し、前を向いて生きるか。
もし自分が認知症を患ってしまったら、できるならば、後者のような生き方がしたい。
どんなに落ち込んでも、時間がかかっても、後者のような生き方ができるよう、今を前向きに生きよう。
「助けてもらって生きるのも私」と語る寺野さんの言葉も、印象的でした。
アルツハイマー月間は、自分の生き方を考える、ひとつのきっかけにできるのかもしれません。
(当記事の画像出典元:公益社団法人認知症の人と家族の会)