介護エッセイを出版しました。
2004年から2009年まで更新していたブログ「今週のすぎやん」の内容を抜粋・修正し、ブログには書ききれなかった作者の思いや後日談なども新たに書き下ろしたエッセイ。

父と私の最後の2ヶ月。

仏花 介護経験談
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私が住む地域では、駅前に複数の医療機関が入居するビルが、少しずつ増えてきています。
少し以前のことですが、そういった医療ビルの新たなオープンを告知するチラシが投函されました。

チラシには、入居予定の複数の医院と調剤薬局が紹介されていたのですが、ある箇所に目が留まりました。

この医院の院長の名前、どっかで見覚えがある。

チラシに記載されていた、院長の挨拶やプロフィールを読んで、もしかしてと思い、押し入れの奥から引っ張り出した、父の死亡診断書のコピーで、再確認。

この院長、父の主治医だった、A先生だ。独立されたんだ。

チラシに掲載されたA先生の顔は、少しふっくらされたのか、私の記憶の中に残るお顔とは、ちょっと違っていました。

今から十数年前のこと。
かかりつけ医のすすめで、父は専門のクリニックで胃カメラ検査を受け、十二指腸にガンが見つかりました。
治療方針を決めるためにも、精密検査が必要なので、総合病院に入院することに。

入院当日、病院で受付を済ませた後、救急外来へ案内され、問診して下さったのがA先生。
当時、電子カルテが徐々に普及し始めた頃で、私と父が話した内容を、先生自らパソコンに入力されています。その手元が、おぼつかないこと。

父に「病院の先生も、今時はパソコンやで」と話しかけていると、「もう、大変なんです、これ。手書きの方がええんやけど」と、困り顔で返答されたことが、とても印象に残っています。

入院後、A先生がそのまま父の主治医に。
様々な検査をして正式な病名が確定し、治療が始まったものの、坂道を転がるように容態が悪化し、大部屋から個室に移り、できうる限りの治療の甲斐なく亡くなるまで、何度もA先生とはお話をしました。
治療方針や病状など、何度も繰り返し説明、父と私の意に沿う形で治療を進めて下さいました。

父も、A先生に勝手にあだ名を付け、気さくに呼びかけていました。
だけど、A先生は、どちらかといえば真面目なタイプ。父のようにざっくばらん過ぎる人の扱いは、ちょっと苦手だったのかもしれません。

亡くなる1週間ほど前、血小板の数が激減したため、血小板輸血が実施されることになりました。

輸血中、A先生が、様子を見に来られました。
「とにかく・・・ここ1週間くらい、頑張りましょう」と父に声を掛け、病室を出ようとする先生に、父は「先生は、酒、飲めるんか?」と、衝撃質問。

絶飲食中で、高熱を出している病人からの想定外の質問に、A先生は絶句し、何も答えないまま退室。
その後、さらに父がひとこと。

「あの先生は、ようしてくれる。ちょっと、へんこ(偏屈な人、頑固者)やけどな」

輸血の間、ずっと父の様子を観察されていた看護師さん、父の言葉にばかうけ。

父の入院期間は、たった2ヶ月。
いろいろなことがあり、様々な感情が揺れ動き、ジェットコースターに乗っているような日々でした。
そんな日々の中に、メインキャストのひとりとして登場されたのが、A先生です。

お正月、がらんとしたナースステーションで、必死の形相でパソコンに向かっておられたこと。

亡くなる数日前、父がもうわずかの命だという現実を聞かされ、ため息ついて呆然として黙り込んでしまった私に、何も言わず、私が何か言葉を発するのを、じっと待って下さったこと。

院内用のハンディホンをポケットから取り出し、正確な時間を確認し、死亡宣告されたこと。

A先生の、様々な様子が、記憶に残っています。

チラシ1枚で、父と私が全力で走った、あの濃密な日々を思い出したひとときでした。

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