私が住む地域では、駅前に複数の医療機関が入居するビルが、少しずつ増えてきています。
少し以前のことですが、そういった医療ビルの新たなオープンを告知するチラシが投函されました。
チラシには、入居予定の複数の医院と調剤薬局が紹介されていたのですが、ある箇所に目が留まりました。
この医院の院長の名前、どっかで見覚えがある。
チラシに記載されていた、院長の挨拶やプロフィールを読んで、もしかしてと思い、押し入れの奥から引っ張り出した、父の死亡診断書のコピーで、再確認。
この院長、父の主治医だった、A先生だ。独立されたんだ。
チラシに掲載されたA先生の顔は、少しふっくらされたのか、私の記憶の中に残るお顔とは、ちょっと違っていました。
今から十数年前のこと。
かかりつけ医のすすめで、父は専門のクリニックで胃カメラ検査を受け、十二指腸にガンが見つかりました。
治療方針を決めるためにも、精密検査が必要なので、総合病院に入院することに。
入院当日、病院で受付を済ませた後、救急外来へ案内され、問診して下さったのがA先生。
当時、電子カルテが徐々に普及し始めた頃で、私と父が話した内容を、先生自らパソコンに入力されています。その手元が、おぼつかないこと。
父に「病院の先生も、今時はパソコンやで」と話しかけていると、「もう、大変なんです、これ。手書きの方がええんやけど」と、困り顔で返答されたことが、とても印象に残っています。
入院後、A先生がそのまま父の主治医に。
様々な検査をして正式な病名が確定し、治療が始まったものの、坂道を転がるように容態が悪化し、大部屋から個室に移り、できうる限りの治療の甲斐なく亡くなるまで、何度もA先生とはお話をしました。
治療方針や病状など、何度も繰り返し説明、父と私の意に沿う形で治療を進めて下さいました。
父も、A先生に勝手にあだ名を付け、気さくに呼びかけていました。
だけど、A先生は、どちらかといえば真面目なタイプ。父のようにざっくばらん過ぎる人の扱いは、ちょっと苦手だったのかもしれません。
亡くなる1週間ほど前、血小板の数が激減したため、血小板輸血が実施されることになりました。
輸血中、A先生が、様子を見に来られました。
「とにかく・・・ここ1週間くらい、頑張りましょう」と父に声を掛け、病室を出ようとする先生に、父は「先生は、酒、飲めるんか?」と、衝撃質問。
絶飲食中で、高熱を出している病人からの想定外の質問に、A先生は絶句し、何も答えないまま退室。
その後、さらに父がひとこと。
「あの先生は、ようしてくれる。ちょっと、へんこ(偏屈な人、頑固者)やけどな」
輸血の間、ずっと父の様子を観察されていた看護師さん、父の言葉にばかうけ。
父の入院期間は、たった2ヶ月。
いろいろなことがあり、様々な感情が揺れ動き、ジェットコースターに乗っているような日々でした。
そんな日々の中に、メインキャストのひとりとして登場されたのが、A先生です。
お正月、がらんとしたナースステーションで、必死の形相でパソコンに向かっておられたこと。
亡くなる数日前、父がもうわずかの命だという現実を聞かされ、ため息ついて呆然として黙り込んでしまった私に、何も言わず、私が何か言葉を発するのを、じっと待って下さったこと。
院内用のハンディホンをポケットから取り出し、正確な時間を確認し、死亡宣告されたこと。
A先生の、様々な様子が、記憶に残っています。
チラシ1枚で、父と私が全力で走った、あの濃密な日々を思い出したひとときでした。